在来の構法について -書誌的考察-
Kobayashi
「在来構法」の生い立ち
木造によって住宅をつくる技術、そのなかに「在来構法」と呼ばれる1つの類型があります。この「在来構法」、建築の辞典を調べてみると、次のように記されています。[在来構法:以前から用いられている一般的な建築の構成方法。従前の生産システムを前提とした構法。] この記述からも分かるように「在来」という言葉は、新しいモノの移入を受けて、従前のモノを客観化・相対化する過程で定着してゆきます。こと木造技術において「新しいモノ」の移入は、法規(建築基準法)や制度(住宅金融公庫)の再編成(ともに1950年)と、新建材の輸入・開発などを背景に、戦後のドタバタのなかで成されてゆきました。この際に、「現代的」ではない構法、もしくは今後の住宅づくりにはふさわしくない構法、という含意をもって再体系化(定義)されていったのが「在来構法」ではなかったか、と思われます。
そして現在、「金物で固めた細い骨組みに様々のパネルを貼って性能を確保する」新しい(戦後の)構法は、ついに住宅づくりの現場において大多数を占めるにいたりました。ここに多用される様々のパネル(石油化学製品)は、しかし健康被害や乏しい耐久性を露呈しつつ、今にいたります。こうした課題を克服するための1つの方向性として、パネルそのものの安全性能や耐久性能を向上させる取り組みがあります。また一方で、上記とは逆のベクトルとして持てはやされているのが、昨今の「自然素材による住宅づくり」という現象になるでしょうか。しかしこの「自然素材」を、知識としてではなく知恵として使いこなすにあたっては、技術の「熟練」を要します。なぜなら手を加える相手(自然素材)は、どこを切りとっても規格化されていない有機物だからです。そしてこの規格化されていない相手(自然素材)との付き合い方を、長い歳月のなかから培ってきたもの、それこそが戦後以来侮蔑されつづけ、ついにその技術が失われつつあるところの「在来構法」でした。
ここでわたしたちは、「技術の連続性」というテーマに行き当たります。技術は、その時代のニーズにあわせて変化(展開)しつづけてきました。そしてこの技術の移り変わりは、つねに従前の技術を足がかりとして、そこからの連続性のもとに展開してきたのではなかったでしょうか。技術の熟練とは、「ひとりの職人」という閉じられた世界のなかでだけ展開する行為ではありません。とりわけ木造の建築技術には、それをになう技術者(層)を媒介とした継承によって、さらに熟練の度を深めてきたという側面があります。こうした「技術の連続性」を想うとき、ことさら「目新しい技術」の登場という出来事には、慎重に対処せざるを得ません。そして前述の「在来構法」もまた、開国を端緒として明治期以降に移入された「目新しい技術」の数々にさらされ、客観化・相対化される過程で形成されてきた構法といえます。
当コラムは、在来構法の生い立ちを考えるうえで重要な時節にあたる明治以降・昭和戦前期の木造技術の変遷について、「在来の構法」というキーワードから考察を加えるものです。
建築技術書の変遷
「在来の構法」が明治期から戦前にかけてどのような変遷の過程をたどったのか、それを探る方法としてここで着目したいのは、明治期の出版条例の改訂(1887年)を受けて、以後継続的に出版されつづけた建築技術書(*1)です。これらの建築技術書は維新後の、技術官僚の輩出や中堅技術者層の育成といった時代の要請のもと、彼らのための雛形書・教科書として公刊されはじめました。建築技術の継承についてはそれまで、徒弟(とてい)制度における「習うより慣れろ」の世界に多くを依存していました。ここに明治維新を受けて、「教育」ないし「学問」という切り札が導入されます。すなわちこれを受けて、「木造技術のテキスト化(文章化)」という出来事(試み)が起こりました。
建築技術書の表紙 左側から順に、文部省編「普通木工術」(大日本図書 1899)、吉田全三著「改良 日本家屋構造」(大日本工業学会 1919)、髙藪良二著「西洋建築構造」(中央工学会 1930)
では、これらの建築技術書は誰が書いたのか。換言すれば、誰ならば書くことが出来たのか。それはもちろん「在来の構法」をになっていたところの、在野の技術者(*2)たちです。このことは、建築技術書のまえがき部分などに、「規矩準縄ノ家ニ生マレ其ノ業ヲ襲ギ」といったかたちで触れられています。ここでひとつ、見慣れない言葉が登場しています。「規矩」とは何でしょうか。当時の伝統的な木造技術を指して表現する言葉に「規矩術(きくじゅつ)」というものがあります。この「規矩術」、建築の辞典には、次のように記されています。[規矩術:木造建物の仕口・継手その他構造部の実形を曲尺(かねじゃく)によって作り出す図式解法をいう。] そして先程も触れた徒弟制度と並行して、この規矩術を伝承するための媒体として「規矩術書」という本が、近世の半ば以降つぎつぎと著わされてゆきました。そしてこの時期、幕府関係の規矩術書を独占的に出版しつづけていた発行元(須原屋書店)がまた、初期(明治・大正期)の主要な建築技術書の出版にも携わっていました。すなわち明治期にはじまる建築技術書の出版、この主体(著者や発行元)もまた木造技術と同様、近世からの連続性のもとに行われていたことが分かります。
友安藤七著「家屋建築 坪曲速成図解」(田中宋栄堂 1914) より
明治期以降の建築技術書は先程も触れたように、技術官僚や中堅技術者層の養成を目的として著わされていますから、当然その内容は当時の目新しい技術(欧米から移入された技術)が主役となります。しかし同時に、これらの本を著わしたのは研究者ではなく在野の技術者たちですから、それらの目新しい技術をいかに実用的に再解釈し、実務に即して紹介できるか、という点に主眼がおかれます。結果、ここに面白い現象が起きます。木造技術が、「和」と「洋」とに分けて表現されるのです。すなわち木造技術が、衣服や食物と同様の類型をもって再体系化されざるを得なかったといえます。ここで在来の技術は「和」または「和式」の技術として、また当時移入された目新しい技術は「洋」または「洋式」の技術として目次だてされ、それぞれ別個に論じられます。そして「和」の技術と「洋」の技術は、昭和戦前期に出版されつづけた建築技術書というステージにおいて、いずれ相容れないものとして解釈されつづけ、戦後をむかえます。
ここでいう「和式」とは小屋の梁(はり)組みや貫(ぬき)・差鴨居(さしがもい)などによる骨組みの構造を、また「洋式」とはトラス(三角形の組み合せ)による小屋組や間柱(まばしら)・筋違(すじかい)による壁体の構造を、それぞれ指しています。そして建築技術書の著者たちは「和式」と「洋式」、それぞれのステージにおいて、その技術的な課題を提出し、実務に即した解説を、競い合うように提唱しつづけました。
左側:斎藤兵次郎著「日本家屋構造」(信友堂 1904) より
右側:北与惣松,加瀬正衛著「和洋木造家屋構造図解」(須原屋書店 1918) より
こちらの写真、左側は差鴨居(三方差し)の仕口(接合部)の加工技術を説いたものです。「和式」の技術の代表格にあたるこの差鴨居は、柱の断面欠損が集中するという構造的特質をもって、当時の建築系学術機関によって徹底的に非難され、「洋式」の技術への移行を説くロジックとして利用されました。それでもなお差鴨居が、戦前期の建築技術書において重点的に説明され、その加工技術が試行錯誤されつづけたことに、木造技術というものの特異な性質があらわれているのではないでしょうか。また写真の右側は、土台の隅角部分における火打ち(ひうち:水平方向の斜材)の挿入方法を説いたものです。「洋式」の技術にあたるこの火打ちは、その両端を金物で固定するもの、として移入されました。しかしこの建築技術書では斜材を抜き通したうえで、「和式」の技術にあたるクサビの要領で締め固めるかたちで解説されています。木材と金物との相性を考慮したうえでの提唱として捉えることができます。
吉田全三著「改良 日本家屋構造」(大日本工業学会 1919) より
こちらの写真は、トラス(三角形の組み合せ)による「洋式」の小屋組の技術を説いたものです。ですが、よく見ると屋根に反りをもたせて、また「桔木(はねぎ)」と呼ばれる「和式」の技術を転用することで軒の出を確保しています。さらに屋根の形状ですが、切妻(きりづま)屋根を前提とするトラス架構を応用してみせることによって、寄棟(よせむね)屋根のつくりかたを解説しています。トラス架構によって寄棟屋根をつくる場合の技術的な課題、それは隅部の束(つか)に合掌(がっしょう)と方杖(ほおづえ)が5方向から集まることによって、この束の加工が非常に複雑になることでした。一連の建築技術書では、この束の複雑怪奇な形状を指して「杵(きね)束」「鏑(かぶら)束」「南瓜(かぼちゃ)束」など様々なネーミングがなされ、それぞれがこの難解な束の加工方法の解説を試みています。明治以降・昭和戦前期に出版された建築技術書は、まさに「在来の技術」と「目新しい技術」との相克の場であり、また現在の木造技術の在り方を考えるうえでの貴重なテキストでもあるといえます。
「在来の構法」の展開
ここまでみてきたように、明治以降・昭和戦前期の木造技術の歩みは、欧米の「目新しい技術」の移入という命題にさらされながらも、多様な展開の可能性を内包したものでした。しかしここに法制の再整備をともなって、「戦後」が訪れます。建築基準法(1950年)の制定以前にも、住宅に係る法規は存在していました。市街地建築物法(1919年)が、その前身とされます。ただしこの市街地建築物法は、文字どおり極度に市街化された地域に限って、そこに建つ建築物の耐震性や耐火性を確保する性格の法規でした。ひるがえって戦後の建築基準法はこうした規定を、どこに建つ、どんな建物にも適用せんとする骨格を備えたものでした。木造技術というものの多様性を画一的に捉えようとするこの取り組みは、生産性の向上を指向する作り手側のニーズと、一部の技術官僚による恣意的な操作とを拠り所として、成功をおさめたかにみえます。そして在来の構法は、「在来構法」という名の足かせを与えられて、現在にいたります。しかしこの法制による画一化路線が限界を露呈しつつあるのを受けて昨今、この骨格そのものを矯正する動きもまた見いだすことができます。
こうした経緯をふまえたうえで私たちに出来ること、それはいま一度「技術の連続性」という理(ことわり)に身をゆだね、「生きた住宅」をつくるための「生きた木造技術」を模索することにほかなりません。「在来の構法」とは本来、あたかも生物の在り方がそうであるように、自律的かつ多様な展開を示して今日に至るべきはずのものではなかったか、という想いを抱いて。
[脚注]
*1 本稿では一次資料として、1890年~1945年の間に公刊された88点の建築技術書を国立国会図書館の蔵書から選出のうえ、とりわけ家屋建築のつくり方を主題として総合的かつ体系的に著わされた20点の書誌を精査対象とした。国立国会図書館の蔵書は、当時出版者に内務省への届出が義務づけられていた書物を含んでおり、最も網羅性の高い蔵書のひとつといえる。なお規矩術(書)に関する記述は、中谷礼仁氏による書誌的研究の成果を参照した。
*2 本稿が精査対象とした建築技術書の大半は、その著者が工業教育機関の教員である旨を明記している。当時の初等中等建築教育は家屋を実地で建てることを想定した教則に基づいており、その教員には進歩的な技術観をもった実務経験者が充てられた。よって本稿が取り上げた建築技術書は、外来の技術が彼ら(著者)を媒介として、実務からのフィードバックのもとに著わされたと捉えることが出来る。なお当時の建築教育の詳細については、清水慶一氏による既往研究を参照した。
【当コラムは日本建築学会計画系論文集 第588号, pp181-186, 2005年2月 拙著「近代日本の建築技術書にみる木造架構技術の変遷過程に関する研究 -家屋技術書の書誌的考察をとおして-」を再編したものです。 小林謙太郎】