里山は、いま -そもそも反自然な存在である〈ヒト〉にとって自然保護って何だろう-
Tsushima
「保護」という名のヒトの手
移り住んで17年になる「研究学園都市つくば」には、先ごろ都心とを結ぶ鉄道が開通した。総事業費は一兆円近く、計画から20年の歳月を要した。筑波山南麓は東京から50キロメートルのところにありながら、かつては「関東のチベット」などといわれたところであったが、1970年から研究学園都市の建設が始まり、今ではその様相が大きく変わった。当時の首相・大平は「緑豊かな田園都市に優れた人材を集め、国家がそれにふさわしい環境づくりをすることが、技術立国日本の歩む道だ」と講演したが、山林や原野など3,000ヘクタール近くの緑が剥ぎ取られた。もっぱら外部から持ち込まれた大規模な開発計画が、計画側と地権者とのあいだで話がつけば事業はどんどん進められ、市民がそれに関与する機会は全くなかった。
私は、科学史家の筑波常治(つくば・ひさはる)が30数年前に述べた次のような問いかけを、折りにふれてよく思い出す。
「〔自然保護〕という言葉がさかんにつかわれているが、いったい自然を保護することが本来可能なのか。自然に対立する概念は〔人工〕であって、保護という名の手をヒトが加えた途端、厳密な意味での自然ではなくなってしまうのだから、保護された対象は一見自然そのものの風景を呈するかもしれぬが、実態はすでに人工的なものに転じているのではないか。自然破壊は工業化によってもたらされたと誤解している人が多いが、人間が自然のバランスを大きく壊したのは実は農業を開始した時に始まる。」(『思想の科学』‘71年12月号「環境原論」)
都会の人が田舎の水田や、規則正しく植えられた杉などの人工林を見て「ああ、自然はいいなあ」などという。これほど人為的な風景はないというのに、緑があふれ清流が流れていれば「自然」と思い込んでしまう人は多い。一方で、自分が住む都会の風景についてはさしたる関心を示すことがないのに、変化しつつある地方の景観に対しては「こんなに自然をこわすのは許せない」などといったりする。
変わり果てていく景観
私には忘れられない心の風景がある。最初は5歳足らずで大阪大空襲の中を逃げ惑ったときの情景で、今でも絵に描けるほどその記憶は鮮明だが、そのあとは途切れている。次に覚えているのは、あちこち避難のあと最後にたどりついて数年を過ごした四国の山里と、それをつつんでいた里山の景観である。茅葺の農家があり、さまざまな植物や生き物のあふれた、野や山や池や小川が胸に沁みついている。
里山を自然と誤解している人も含め、今とりわけ里山がいろいろに語られる。「里山に循環を取り戻すには、スギを有効に使うこと…そのあとに広葉樹を増やし、里山の多面的な機能を回復させ…」。私もそれを待望するが容易ならざるワザであろう。日本では、里山がそうであるように、ヒトと自然とがある程度折り合って、調和をつくり出していくほかないのであろうことはわかっている。しかし寝苦しい夜にいま私が見る夢は、何十年か前に全国各地で見られたのと同じように、鉄道が開通したこの町にも住宅開発の大波が及んで、東京に通勤するのに寝るためだけの人たちの小さなバラ建ちの家が筑波山麓にまで連らなる景色であったりする。つくばには今も多くの平地林があるが、そこに見られる杉や檜は植えられてから何の世話もされないまま放置されているように見える。広い土地の所有者の中には、心の片隅で、自分の土地があるいはもっと値上がりするのではないか、というところに一筋の希望を宿している人がいるかもしれない。その一方で、そこに住んでいる市民たちの参加の全く及ばないところで、今なお、さまざまな開発計画が強引に押し進められている。
つくばは、『土』を書いた長塚節(ながつか・たかし)の生地に近いが、大規模開発さなかの1981年に発表された地元の農民作家・比毛和美(ひけ・かずみ)の小説「ふる里の今は」(『農民文学』No.178‘81年7月刊)は、住民とは無関係に急激に推し進められる大規模な開発に手の施しようもなく、変わり果てていく地域の景観を哀しむ挽歌のように私には思える。そして、散在する貧弱な平地林を眺めながら、いま私は、その頃の比毛と同じ思いの中に立ちつくしている。
【月刊誌『住宅建築』’05年10月号(通巻367)「連載/いま在るものに寄せて/里山は、いま」を一部補筆して再録 對馬英治】